全国的に盛り上がりを見せるコーヒーシーン。飲食店という枠を超え、さまざまなライフスタイルやカルチャーと溶け合っている。なかでも関東エリアは伝統的な喫茶店から最先端のカフェまで、さまざまなスタイルの店が共存する、まさに日本のコーヒー文化の中心地。
東京をはじめ、関東近郊にある注目店を紹介する当連載。焙煎士や店主たちが教える“今、注目すべき”ショップをつなぐ、コーヒーリレーの旅へ。

第21回は東京都文京区にある「ignis(イグニス)」。店主は17歳のころに大手コーヒーチェーンに勤め、その後は都内の有名カフェ、ロースターでコーヒーを学んだ人物。2020年に「ignis」を開業し、名店で学んだ技術を発揮。また個人店という強みを活かし、自由な発想で新しいコーヒーを提案し続けている。店で提供されるコーヒーは希少ロットの豆がメインで、驚くような価格帯のものも少なくない。だがこれもバリスタ、そしてコーヒーの価値を高めるため。今回は店主が挑戦し続ける“ニュースタンダード”について聞いてみた。
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Profile|土橋永司(どばし・えいじ)
1991年、東京都生まれ。高校時代から大学在学中に大手コーヒーチェーンに勤めた後、「ブレンズコーヒー」や「Paul Bassett(ポール バセット)」(新宿)に勤務。その後は「GLITCH COFFEE & ROASTERS(グリッチ コーヒー アンド ロースターズ)」(千代田区神田錦町)に勤め、コーヒーの知識や技術に加え、経営についても学んだ。2020年12月に千駄木エリアに「ignis」を開業。
名店を経て見つけ出したコーヒーの道

土橋さんがコーヒーの世界に足を踏み入れたのは17歳のころ。大手コーヒーチェーンの「スターバックス」に入ったことがきっかけだ。
「当時、“スタバ”が流行ったこともあって『ここで働きたい』と思ったんです。店頭に立ってコーヒー、接客について基礎から学びました。また居心地のいいカフェ空間を体感できたのもよかったと思います」
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そんななか、2000年代後半に訪れたラテアートブームがひとつの転機となる。2008年に世界大会でアジア人初のチャンピオンが誕生したことで、ラテアートの存在が一気に広がり、土橋さんも自然とその魅力に惹かれていった。
「ラテアートをもっと知りたいと思い、いろんなお店に通いました。そして技術的な部分も勉強したいと千代田区にあった『ブレンズコーヒー』(現在は閉業)で働くことに。このお店はラテアートの大会を主催するなど、いわば“聖地”のような場所でした。在籍する人たちもすごくて、たとえば私の師匠でもある小塚さんという方は今や定番となっているウィングチューリップを生み出した人物です。ラテアート界の第一線を走る人々が集まっていましたね。“スタバ”と並行して勤めること約2年。当時は技術がなかった分、それを補うように練習を重ねてラテアートに没頭する日々でした」

「ラテアートを追求するうちに、『本当においしいコーヒーとは?』という疑問が湧いてきたんです。それからいろんなお店でブラックコーヒーを試して本来のおいしさを探していたんですが、答えを教えてくれたのが『堀口珈琲』でした。おすすめしてもらったのはエチオピア産の豆を使った一杯。そのときはスペシャルティコーヒー自体がほとんどはじめてで、華やかな香り、フルーティーな酸味、心地よい余韻は衝撃的でした」
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「堀口珈琲」といえば当連載の第1回、第2回で紹介した、日本におけるスペシャルティコーヒーの先駆的存在。「人生を変えた一杯」と語るほどインパクトは大きく、スペシャルティコーヒーへの扉が開かれた瞬間でもあった。

その後、さらなる深みを求めて「Paul Bassett」へ入ることに。ちなみに「ignis」を紹介してくれた「Raw Sugar Roast(ロウ シュガー ロースト)」の小坂田さんとの出会いはここから。その後に勤務する「GLITCH COFFEE & ROASTERS」でも、ともにコーヒーの技術を高めあった同士であり、後にそれぞれが自身の店を持ち、今では気鋭のロースターとして活躍を続けているという事実には感慨深いものがある。
「『Paul Bassett』はバリスタの世界チャンピオンが立ち上げたお店で、その高い技術を見ながらの約3年半は、とことんコーヒーと向き合う重要な期間となりました。その後は当時のヘッドロースターからの誘いを受けて『GLITCH COFFEE & ROASTERS』の立ち上げメンバーとして参加しました。ここでは5年ほど勤務。個人店がどのように拡大し、ブランドを築いていくのか、コーヒーの技術だけでなく経営やお金の流れも含めて、店がゼロから成長していく過程を間近で実感できたことが大きい。もともと開業を目指していただけに、とても勉強になりましたね」
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それぞれの店を経て多くを学んだ土橋さん。一方で大きな組織に身を置くことに限界を感じることもあったという。
「特にお店に所属していると、そこには偉大な先輩がいて、頑張っても常に二番手で終わってしまうような気がして。お店の規模が大きければ、その分次のステップに進むまで時間がかかってしまうとも思ったんです。それなら自分でやるしかないと、そんな思いもあって『ignis』を開業しました」
提案したいのはコーヒーの“ニュースタンダード”

店を構えるのは千駄木エリアの「よみせ通り」。この場所を選んだのは「好きだから」というシンプルなものだ。下町感のある通りには老舗が点在し、新しい店も優しく受け入れてくれる。そんな新旧が混ざり合う街の雰囲気が気に入っているのだとか。店を長く続けたいと思う土橋さんの思いにも合った場所と言える。
そして店のテーマに掲げているのはコーヒーの“ニュースタンダード”。単にコーヒーを提供するのではなく、素材は同じでもつくり方を独自のものに変えるなど、個人店だからこそできる自由な発想でアレンジするのがこだわり。カウンターをメインに展開しているのは、コーヒーができるまでの工程を目の前で見られるライブ感を楽しんでもらい、また一人ひとりに向き合った丁寧な接客をするため。
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そして土橋さん自身が目指すのは「バリスタ、コーヒーの価値を高める」こと。なかでも象徴的なのが価格帯だ。今では一般的となっている1杯1000円台のものもあるが、高いものだと7000円、以前は1万円と高額なコーヒーを提供していたこともあった。
「高価なものだと驚かれることが多いですが、素晴らしいコーヒーがあるからこそ、そこに正しい価値を見せたいと思うんです。たとえば1杯1万円でも売れるバリスタになれば、その影響で業界全体の価値も変わってくる。そのために自分では、豆を高額で買い付けていて、過去にはエチオピアの豆を過去最高額で取引したことも。価格的には通常の50倍近くにはなりましたね。言葉だけでなく、コーヒーの価値を引き上げるために“行動”で示したいと思っています」

店のカウンターには時季ごとに内容を変える8種類の豆が並ぶが、店の裏には80種類ほどのストックがあるのだとか。毎年、海外の農園を訪問し、品質を直接確かめながら自分がいいと思える豆を厳選している。
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「豆は甘味、酸味、風味、余韻のトータルバランスがいいものを基準に。コスパのよさは考えず、価値の高いものを優先しています。焙煎には『aillio(アイリオ)』の小型機を使用。機械ごとにクセがあるものですが、この機械はそれが少なく、意図した焼き方が素直に反映されていると思います。種類が多く、豆ごとに小ロットで焼くので1キロ単位の機械が最適かなと」

抽出はドリッパーホルダー「Paragon(パラゴン)」に「ハリオV60」を装着して行う。コーヒーが冷却された玉を通ることで風味の揮発を抑え、閉じ込める。さらに口当たりがよくなるなどの効果もあるが、抽出の工程をカウンター越しに見せることで視覚的な楽しさを提供する目的も果たしている。

エスプレッソマシンはタブレットで管理できる最新機器、手動ポータブルマシン「Nomad」という全く異なる機械を2台用意し、豆ごとに使い分ける。「Nomad」はレバーを左右に動かすことで圧力を生み出すもの。レバーを動かす工程は珍しく、見る側としても新鮮で楽しめるもの。見た目のかわいさとは裏腹においしいエスプレッソが生み出される、「そのギャップもいい」と土橋さん。
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そして店を語るうえで欠かせないのが器だ。一般的なカップではなく、特注の抹茶茶碗を数種類常備している。色や質感によって味の感じ方が変わるため、コーヒーごとに使い分けている。ほかにはない珍しいスタイルだが、重厚感のある器に注ぐことでコーヒーそのものに厚みが加わる新しい感覚だ。ほかにも構造上、飲むときに自然と鼻が近づくので香りが感じ取りやすい。そして両手で持って飲むため、スマホを手に取ることがなくなり、コーヒーに集中できるという点もおもしろいと感じた。
「開業時からホットの場合、この抹茶茶碗で提供しています。スマホに触れず、コーヒーに集中してほしいけど直接言うのは野暮なので、“手が空かない”設計の器で出せば、自然とコーヒーに集中できますよね」
街角に佇む気鋭のロースターから発信されるコーヒーの“ニュースタンダード”。これからも価値を高めるための挑戦を続け、驚きや楽しさに満ちたコーヒーの新定番をつくり出していくに違いない。
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【土橋さんレコメンドのコーヒーショップは「KURO MAME TOKYO」】
「東京都港区にある『KURO MAME TOKYO(クロ マメ トーキョー)』。スイスで活躍する深堀さんが2025年に開業した注目店です。完全予約制でカウンター越しに1対1でバリスタが対応してくれるほか、店にメニューはなく、その日の気分や好みを伝えると最適な一杯を提案してくれるのがおもしろい。唯一無二のスタイルを体感しながら、普段はなかなか飲めない先進的なコーヒーが楽しめるのがポイントです」(土橋さん)
【「ignis」のコーヒーデータ】
●焙煎機/aillio 1キロ(熱風式)
●抽出/ハンドドリップ(ハリオV60)、エスプレッソ(Nomad、DATA)
●焙煎度合い/浅煎り
●テイクアウト/あり(900円〜)
●豆の販売/100グラム2500円〜
取材・文/GAKU(のららいと)
撮影/大野博之(FAKE.)
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