奈良公園の木々が色づきはじめ、ゆるやかに人の流れが続いていく。その先にある奈良国立博物館では、今年も「正倉院展」が開かれている。今年で77回目を迎える正倉院展は、年に一度だけ勅封が解かれ、宝物が一般に公開される秋の奈良を象徴するイベント。わずか2週間の開催とあって、関西エリアを中心に多くの人が訪れている。今回は報道内覧会に参加し、実際に感じた会場の空気と展示の魅力を紹介したい。

1200年以上の時を超えて。正倉院ってどんな場所?
まず知っておきたいのが、「正倉院」そのものについて。奈良・東大寺の北側に立つ建物で、木のぬくもりが感じられる校倉造り(あぜくらづくり)が特徴だ。756年(天平勝宝8年)、光明皇后が聖武天皇の愛用品を東大寺の大仏に奉納したことが始まりとされ、1200年以上経った今もその姿を変えずに残っている。
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建物はヒノキを組み上げた校倉造りで、高床式の造りが湿気を防ぐ役割を果たしている。古の人々の知恵が詰まった構造だ。中には約9000件、点数にしておよそ1万点の宝物が収められており、絹織物や漆器、金工品、文書など、当時の文化や技術がいきいきと息づいている。その中には、シルクロードを通じて伝わった素材や技法も多いという。正倉院はまさに、東と西の文化が出合い、新しい美が生まれた“古代日本の交差点”。1200年以上前の人々の感性と知恵が、今も確かに息づいている。
毎年秋には、年に一度の風通しのために勅封が解かれ、選ばれた宝物が久しぶりに外気に触れる。その時こそが、正倉院展として人々の前に姿を現す特別な瞬間なのだ。
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豪華絢爛!節目の年にふさわしい特別な正倉院展
今回の正倉院展は、13年ぶりに公開される瑠璃坏(るりのつき)、織田信長らも魅了された蘭奢待(らんじゃたい)こと黄熟香など、教科書にも掲載され誰もが知っている宝物が数多く出陳されていることでも話題。今回初公開となる6件を含む合計67件もの宝物が登場し、規模も内容も例年以上の充実ぶりだ。

奈良国立博物館の井上洋一館長は報道発表会で「今年で正倉院展は77回目を迎えます」と語り、この節目を“特別な年”と話した。その理由は、2025年は万博イヤーに加えて、戦後80年、奈良国立博物館の開館130周年と、さまざまな節目が重なる年だから。「この重なりを記念するような展示にしたい」と話す館長の言葉から、今年への特別な想いが感じられた。今年は、奈良国立博物館の原点ともいえる「第1回奈良博覧会」から150年という節目の年でもある。この記念すべき年に合わせ、当時の博覧会にゆかりのある宝物が特別に展示されている。
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井上館長は「ポスターにも登場している瑠璃坏や平螺鈿背円鏡(へいらでんはいのえんきょう)といった国際色豊かな宝物が見どころです」と紹介。どちらもシルクロードを介してもたらされた文化交流の証であり、天平文化の国際性を今に伝える貴重な品々だ。また、「奈良博と関係の深い染織類の宝物」も展示され、奈良国立博物館と正倉院の長いつながりを感じさせる。


さらに注目を集めているのが、150年前の第1回奈良博覧会(当時の会場は東大寺の大仏殿と回廊)で実際に展示された宝物。館長は「当時展示された巨大な筆・天平宝物筆や、開眼供養に使われた道具、そして“天下の銘香”と称された黄熟香・蘭奢待も出品されています」と紹介し、歴史の息づかいを今に伝える展示になると語った。
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きらびやかな宮廷から広がる、祈りと音、そして匠の世界
展示は8つの章で構成され、天平文化の魅力が次々と現れていく。まず目を引くのは、宮廷の華やかさを伝える木画紫檀双六局(もくがしたんのすごろくきょく)や鳥毛篆書屏風(とりげてんしょのびょうぶ)、そして伝説の香木・蘭奢待。正式には黄熟香と呼ばれ、古代から受け継がれてきた香木の中でも特別な存在だ。織田信長をはじめ、歴史上の権力者たちがその一部を切り取ったことで知られている。その香木が今、自分の目の前にあるという事実に、思わず胸が高鳴る。



続く章では、天皇の即位式や大規模な仏教法会など、国家の礎を支えた儀礼の世界が広がる。飛鳥時代の後期から奈良時代にかけて、国の繁栄と平和を願うための儀式が整えられていった。展示では、実際にその儀礼で使われた宝物が登場する。たとえば、「子日目利箒(ねのひのめとぎのほうき)」は、新年最初の子の日に、豊作と養蚕の成功を祈る儀式で天皇自らが用いたと伝わる品。素朴ながらも端正な造りには、祈りの真剣さが宿っているようだ。
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また、天平宝物筆(てんぴょうほうもつふで)は、東大寺の大仏開眼法要で実際に使用された筆。仏の目を描くという神聖な役割を担い、千年以上の時を経て今もその姿をとどめている。さらに勅書銅板(ちょくしょどうはん)は、聖武天皇の言葉を金属板に刻んだもので、国の安泰と人々の幸福を仏に託した祈りの証ともいえる。格式高く、壮大な祈りの世界が広がるこの章。静かな展示室の中に立つと、遠い天平の祈りがふっとよみがえるような感覚に包まれる。

さらに進むと、伎楽や舞楽で使われた楽器の展示へ。甘竹簫(かんちくのしょう)は、竹の一本一本から放たれる音が澄み渡るような美しさを持ち、桑木阮咸(くわのきのげんかん)は、木の温もりと緊張感のある形が印象的。展示エリアでは、弦を奏でる音色が静かにポロンと響き、まるで古代の宮廷に響いていた旋律が聞こえてくるようだ。
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そして終盤には、シルクロードを通じてもたらされた美しい工芸品がずらりと並ぶ。花氈(かせん)の華やかな文様、瑠璃坏の深く澄んだ青。それぞれが異国の文化と天平の感性の融合を物語っているよう。目の前に広がる光景に、きっと誰もが時を忘れて見入ってしまうだろう。


正倉院の宝物をこの手に!展覧会限定グッズも必見!
展示を見終えたあとも楽しみが続く。余韻を味わいながら、立ち寄りたいのがミュージアムショップ。館内と屋外の2カ所にあり、外の特設ショップ「天平」は入場券がなくても楽しめる。足を踏み入れると、奈良の老舗・中川政七商店とのコラボふきんや、印傳屋の革小物など、思わず手に取りたくなるグッズがずらり。木画紫檀双六局や瑠璃坏をモチーフにしたデザインも多く、人気グッズが多数そろっている。
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さらに、オリジナルグッズも見どころのひとつ。正倉院の宝物をイメージした文具やポストカード、焼き菓子や羊羹などのスイーツも並び、どれを選ぶか迷ってしまうほど。見て楽しく、選んでうれしいラインナップがそろっている。奈良の風情と天平の美しさが詰まったアイテムは、訪れた記念にも、自分への小さなご褒美にもぴったりだ。




声優・梅原裕一郎さんの声に導かれて、静かな時間を歩く
会場では音声ガイドも人気だ。ナレーターを務めるのは声優の梅原裕一郎さん。落ち着いた声が展示室の静けさにすっと溶けこみ、一つひとつの解説がまるで語りかけるように耳に届く。監修を担当するのは奈良国立博物館の三本周作主任研究員で、専門的な内容も優しく、わかりやすく伝えてくれるので、展示の背景がより鮮明に感じられる。音声ガイドは会場レンタルのほか、スマホアプリ「iMuT」でも利用できる。アプリを使えば、自分のペースでじっくり聴けるのも魅力だ。イヤホンを耳にあてると、人のざわめきがふっと遠のき、自分だけの静かな天平時間がゆっくりと流れはじめる。
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会期は2025年10月25日(土)から11月10日(月)まで。約2週間だけ開かれる天平の扉。その先に待つのは、静かで確かな輝きだ。しかも、一度出陳された宝物は10年は登場しないと言われているほど、滅多に見られない、またとないチャンス。この秋は、1200年以上の時を越えて息づく美と出合うために、奈良へ出かけてみよう。
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取材・文・撮影=北村康行
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